約10年前、我が家の子供達から尋ねられました。
もし子供が不慮の事故で脳死の状態になった時、必要と
している人に臓器を親として提供できるかと。
答えはNOでした。子供達は言いました。提供することで
自分達が誰かの体で生きることができるんだよと。
それでも答えは変わりません。そして今も。
まだ触れば暖かい体をきざまれることへの抵抗感は母親
として耐えられないとの想いが強くあります。
そういう想いを抱きつつ先日、母校の公開講座で
「臓器移植と生命倫理」と題してWHO移植課
アドバイザーの方が授業なさるのを聴講しました。
授業内容は透析を受けている人や拡張型心筋症ベビーの
現状(人数、費用)や移植の歴史を伺いました。
紀元前400年、鼻や耳の損傷に対してすでに移植の技術が
存在、1881年世界初の死体皮膚移植、1906年角膜移植、
1908年膝関節移植、1963年千葉大学にて世界初の
肝移植、そして1968年札幌医大にて心臓移植が行われ
ましたが透明性、記録性の欠如などから医学全般への不信感が
芽生え、1997年基本的理念(死亡した者が生存中に有して
いた自己の臓器の移植術に使用される)が制定されるまで
移植は中断されていたそうです。
具体的な例についてのお話はなかつたものの、医学的、
社会学的、哲学的、宗教的な立場から広く国民が受け入れる
ことのできる情況(PUBLIC ACCEPTANCE)を求めて努力
なさっている様子が窺えました。
さてもしその時が来たら? 授業を聴いた後も答えは
出ておりません。
もし子供が不慮の事故で脳死の状態になった時、必要と
している人に臓器を親として提供できるかと。
答えはNOでした。子供達は言いました。提供することで
自分達が誰かの体で生きることができるんだよと。
それでも答えは変わりません。そして今も。
まだ触れば暖かい体をきざまれることへの抵抗感は母親
として耐えられないとの想いが強くあります。
そういう想いを抱きつつ先日、母校の公開講座で
「臓器移植と生命倫理」と題してWHO移植課
アドバイザーの方が授業なさるのを聴講しました。
授業内容は透析を受けている人や拡張型心筋症ベビーの
現状(人数、費用)や移植の歴史を伺いました。
紀元前400年、鼻や耳の損傷に対してすでに移植の技術が
存在、1881年世界初の死体皮膚移植、1906年角膜移植、
1908年膝関節移植、1963年千葉大学にて世界初の
肝移植、そして1968年札幌医大にて心臓移植が行われ
ましたが透明性、記録性の欠如などから医学全般への不信感が
芽生え、1997年基本的理念(死亡した者が生存中に有して
いた自己の臓器の移植術に使用される)が制定されるまで
移植は中断されていたそうです。
具体的な例についてのお話はなかつたものの、医学的、
社会学的、哲学的、宗教的な立場から広く国民が受け入れる
ことのできる情況(PUBLIC ACCEPTANCE)を求めて努力
なさっている様子が窺えました。
さてもしその時が来たら? 授業を聴いた後も答えは
出ておりません。